おりたたみしき(折畳み式) 翻盖
ストレートしき(ストレート式) 直板手机
つラットしき(つラット式) 直板手机
フラットしき(フラット式) 翻盖式
アンテラ 天线,内藏
レシーバ 听筒
マイク 说话器
イヤホン 耳机
ヒンジ 转轴
LCD 液晶
デュアルバンド 双屏
モノクロ 液晶,单屏
カラー 液晶,彩屏
カメラー 摄像头,内藏式
十字キ 上、下、左、右十字键
キーパット 键盘
数字キ 数字键
通話キ 通话键
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あたたかいあめ【暖かい雨】
凝結の始まりから雨が降るまで、一度も氷の粒を作らない雨。
あめつよし【雨強し】
時間雨量15mm以上の雨。天気記号では雨の記号の右下にカタカナで「ツ」と書く。
あられ【霰】
雲から落下する直径5mm以下の氷の粒を「あられ」という。
おおあめ【大雨】
大雨注意報基準値以上の雨。特定の時間内に大量に降る雨のこと。
おおゆき【大雪】
大雪注意報基準値以上の雪。特定の時間内に大量に降る雪のこと。
かいせい【快晴】
空に雲がほとんどない状態。雲量が1以下。
からつゆ【空梅雨
梅雨期間に雨の日が非常に少なく、降水量も少ない場合。夏の水不足をもたらす。
きりさめ【霧雨】
微小な雨滴(直径0.5mm未満)による弱い雨。
くもり【曇り】
雲量が9以上であり、中?下層の雲が上層の雲より多く、雨が降っていない状態。
ごうう【豪雨】
1時間または3時間のどちらか一方の大雨警報基準を超え、かつ24時間の警報基準を超える大雨。24時間以内に100mm(北日本)~200mm(西日本)以上となる激しい大雨。
ごうせつ【豪雪】
重大な災害をもたらすような大雪。
1963年(昭和38年)の38豪雪や1984年(昭和59年)の59豪雪が有名である。
こゆき【小雪】
数時間降り続いても、1時間あたりの降水量が1mmに満たない雪のこと。
さとゆき【里雪】
山地だけでなく平野でも多く降る雪のこと。主に北陸地方で使われる。
冬型の気圧配置のうち、日本海の北部に小さな低気圧があり、等圧線の縦じまの一部が袋のようにふくらんでいるのが特徴。里雪の場合、人口が密集している平野部に大雪が降るので、交通の混乱、農作物への被害などを起こすことがある。
しぐれ【時雨】
晩秋から初冬にかけて、降ったりやんだりする雨や雪のこと。
北陸から三陸地方、九州地方の日本海側で用いられることが多いが、関東地方では「通り雨」の意味として用いられることもある。
じふぶき【地吹雪】
積もった雪が風のために空中に吹き上げられる現象。
しゅうう、しゅうせつ【しゅう雨、しゅう雪】
にわか雨、にわか雪のこと。積乱雲などの対流性の雲から降る雨、雪。
とうう【凍雨】
雨滴が凍って落下する透明または半透明の氷の粒。
にわかあめ、にわかゆき【にわか雨、にわか雪】
天気がよいときに降る一時的な雨や雪。積乱雲などから降る。通り雨もこのタイプである。
ねゆき【根雪】
冬の間に積もった雪が、長期間消えないで残っている状態。
はれ【晴れ】
空を見上げたとき、雲が少ない状態。雲量が2以上8以下のとき。
高気圧に覆われると晴れる。
ひょう【雹】
直径5mm以上の氷の粒。積乱雲から降る。5mm以下のものは「あられ」。積乱雲や雷雲の中の強い対流にのって、雲粒が上昇?下降を繰り返しながら成長し、雷雨に伴って降ることが多い。まれにピンポン玉、それ以上の大きさとなり、農作物に被害をおよぼすこともある。 みぞれ【霙】
雨まじりに降る雪やとけかけて降る雪のこと。
やまゆき【山雪】
山地に多く降る雪。
冬型の気圧配置のうち、日本海付近の等圧線が縦じまになっているとき降る。
ゆうだち【夕立】
夕方、一時的に降る強い雨で雷をともなうことが多い。通り雨。にわか雨。
積乱雲から降る。
ゆき【雪】
雲から降る氷の結晶。
水蒸気を含んだ空気が上昇して、温度がひじょうに低くなると水蒸気は昇華して小さな氷の結晶(氷晶)となる。この氷晶の表面には、昇華してできた氷晶が次々と付着し、やがて大きな氷の結晶(雪の結晶)となる。これがとけずに落ちてきたのが雪である。
らいう【雷雨】
雷鳴や雷光(稲妻)をともなって起こる風雨のこと。積乱雲によって起こる。
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01.できちゃった婚=奉子成婚02.チョベリバ(超ベリ-バット)=最恶の意味(超verybat)03.ワカッティング(わかっている)=分かっている(了解)04.チョベリブ(超ベリーブルー)=最郁の意味(超veryblue)05.超MM(M=マジ、M=むかつく)=超マジでむかつく(真的超抓狂的、超生气的)06.ジャネバイ=じゃあね。バイバイ(再见,拜拜)07.超ジラレナイシン=信じられない(真不敢相信)08.超SW(S=性格、W=恶い)=超性格恶い(个性超恶劣)09.オ-ル(オ-ルナイト)=彻夜(熬夜、通宵)10.ピッチ=PHSZlzy11.チョバチョブ(超バット超ブルー)=郁状态(超恶劣超郁卒)12.山ハンド=山の手线(山手线)13.ブ-ヤ-=涩谷14.超SBS=ス-パ-ビュティフルセクシ-(超美超性感)15.ロチュー=路上でキスする(在路边接吻)16.シングルグル=彼氏がいない事(没有男朋友)17.ビビリンゲボ-ボ-=びっくりすること(吓一跳、很意外)18.キンパ-=金发19.ケロンパ(发のケ、ロンゲ、金发のパ)=长发の男20.超センムカ=先生にむかつく(老师很抓狂、很生气)21.チョマハキレスン(超マッハキレル寸前)=怒りが爆発する寸前(即将要发飙)22.ギャクキレ=いままで冷静だった方が怒りだす事(把脾气好的人给惹到发火)23.マクル=マクドナルドに行く(去麦当劳)24.マッパー=SMAPのファン(SMAP的迷)25.V=V6のファン(V6的迷)26.ロンゲ=长发27.ガンクロ=色黑の人(黑脸辣妹)28.バチこく=嘘をつく(撒谎)29.借りパク=借りた物を返さない(借来的东西不还)30.チッチッチッ=格好いい男に视线がせまる事(外貌协会、只看帅哥的意思)31.超MMC=超マジにムカツクので杀す(超生气,气到想宰了对方)32.オニ=ひどい(超级過分)33.こくる=告白する(告白)34.オニブス=ひどいブス(超级丑女)35.ノープロ=问题ない(没问题)36.Cビー=格好恶い人(外型很差的人)37.超BM=バカ丸だし(超级笨蛋)38.ヤリコン=SEX目的のコンパ(以性为目的的联谊)39.ドル=どうする(要怎么办?打算怎么做?40.YM=ヤルキマンマン(充满干劲、干劲十足)[查看全文]
本帖最后由 yamazaki021 于 2012-7-15 20:49 编辑
区切り記号----------。 句点﹐マル、 読点﹐句点﹐とう点﹐テン. 中黑﹐中点﹐中ポツ﹐ カンマ/コンマ (comma)﹒ ドット (dot)﹐ピリオド (period)﹐フルストップ (full stop)﹕ コロン (colon)﹔ セミコロン (semi-colon)? はてな﹐疑問符﹐インタロゲーションマーク﹐耳だれ! 感嘆符﹐エクスクラメーションマーク﹐雨だれ括弧類------() パーレン﹐かっこ(括弧){} ブレース﹐中括弧﹝﹞ ブランケット (bracket)﹐大括弧〔〕 龜甲(キッコウ)〈〉 山パーレン、ギュメ《》 二重山パーレン、二重ギュメ「」 かぎ、かぎかっこ『』 二重かぎ、二重かぎかっこ【】 すみつきパーレン、すみつき‘’ コーテーション (quotation)﹐アポストロフィ“” ダブルコーテーション (double quotation)つなぎ符号----------(2)文章中のくくり符号 マーク 名称 読み1 読み2 例・参考「 」 鍵括弧 カギ * *『 』 二重鍵括弧 ニジュウカギ * *[ ] 角括弧 カクカッコ * *( ) 丸括弧 カッコ マルカッコ *(( )) 二重丸括弧 ニジュウカッコ ニジュウマルカッコ *【 】 墨付カッコ スミツキカッコ * *< > 山形括弧 ヤマガタ(カッコ) * *《 》 二重山形 ヤマガタ(カッコ) ニジュウヤマガタ *〔 〕 亀甲括弧 キッコウ * *〔〔 〕〕 二重亀甲括弧 キッコウ ニジュウキッコウ *{ } 中括弧 チュウカッコ * 数式チュウカッコとの混同注意‘ ’ クォーテーションマーク クォーテーション * *“ ” ダブルクォーテーションマーク クォーテーション ダブルクォーテーション *– ハイフン (hyphen)- ダッシュ (dash)~ 波ダッシュ‥ 二点リーダー[查看全文]
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2 ローション 化妆水
3 エッセンス 精华液
4 アイ ジェル 眼部凝胶
5 アイ モイスチャ ー 保湿眼霜
6 アイ セラム 眼部精华液
1 日本地理
日本位于亚洲大陆的东端,日本人认为是太阳生起的地方,因而取名“日本”。
日本是弧形岛国,曲折多姿的海岸线长达二万六千多公里。由北海道、本州、四国、九州等大小约四千多个岛屿组成,被称为日本列岛。
首都是东京。1869年明治天皇把都城从京都迁至东京。因其在京都的东边,故得名东京。东京是日本政治、经济、产业、文化的中心。
日本全国共分为1都(东京都)、1道(北海道)、2府(大阪府、京都府)、43县。都、道、府、县以下又分市、町、村。各行政区实行自治,因此,日本人称地方政府为“自治体”。
日本是个多山之国,山地占总面积的五分之四。日本少见荒地秃岭,有山就有林,森林覆盖面积达67.4%。在本州有海拔3776米秀丽悦目的富士山,形如一把倒挂的折扇,成为日本的一个象征。
日本地处环太平洋的造山地带,即地震带上,是个多地震的国家,年平均有感地震一千次左右。日本也是个多火山的国家,有火山一百六十多座,其中活火山有数十座,温泉遍及全国。
日本国四面环海,属海洋性气候,年平均气温由北而南为10-18度。日本温暖多雨,大部分地方都有梅雨,年平均降雨量1800毫米,比整个地球年平均降雨量高八百毫米。日本水源丰富,水质好,全日本各地的生水都可以饮用。纵观日本人的生活,便可知道日本是受惠于水的。
在日本列岛上,居住着1亿2千多万人(1984年6月)。除1万6千多阿伊努族外,都是“大和民族”,所以,在日本具有民族特色的东西,多加个“和”字,如“和服”“和食”“和歌”等。
2 日语国旗国歌和服
日语就其使用人口而言,是世界第六大语言。不过日语只是一国一族在使用,因而没有列入联合国会议通用语言。日语是全球通用标准语。日文由51个假名和1850个常用汉字组成。
日本国家元首是天皇,现任裕仁天皇生于1901年,1926年即位, 年号“昭和”。天皇是日本国家的象征,但无实权。
日本的国旗是白底之上有一红色的太阳,因而俗称“太阳旗”。“太阳旗”从13世纪以来就在日本流行,1872年明治天皇为日本第一条铁路通车举行庆祝仪式上初次使用。但没有任何一个政权从法律上规定“太阳旗”为国旗,然而它却一直作为国旗使用。
“君之代”是日本的国歌,是赞颂天皇的一首古典诗歌,见于《古今和歌集》。1876年由奥好义和林广季谱曲,后在军队中作为吹奏乐谱使用,并提供给各条约国。从此,日本的很多仪式上使用“君之代”乐谱。对歌词内容,不少日本人都认为不妥或持批判态度。然而,“君之代”却没有任何政权法定为国歌,而又是实质上的国歌。
樱花是日本的国花。因为日本从南到北都有樱花。不仅数量多,种类也多,因而日本被称为樱花之国。春季观樱活动是日本民俗的一大盛事。
日本的民族服装是和服,它是在中国唐代服装的基础上改造发展而成的,随着日本生活方式的欧美化,穿和服者日益减少。但在某些节日及特定场合仍需要穿和服。
“和食”是日本民族特有的饭菜,主食多是米饭,副食大多是海产。它在烹调时注意尽量少加工,以保持原材料的自然风味,甚至有的完全是生食,如“生鱼片”。日本菜以清淡著称,用油炒的菜几乎没有。
日本民族的住宅原是木结构的,也称“和式”住宅。
3 日本折扇
团扇系中国的发明,而后传入日本。折扇系日本发明,而后传入中国。日中两国人民的共同智慧丰富了人类的生活。在日中交流史上不能不说是一件有趣的事。
团扇在奈良时代由唐朝传入日本。在日本最初使用团扇的是宫廷贵族。到平安时代末期,才允许一般庶民百姓使用。当时无论中国或日本,就团扇形状而言,只有圆形和方形,圆形使用量大,所以称其为团扇。
日本进入室町时代,出现用铁和皮革制作的军配团扇,战争时武将们作为阵地指挥的工具。这种军配团扇扇面上使用红漆或金银粉, 画上星辰、日月,团扇柄端缀有穗头。相扑比赛是行司裁判用的军配留有战场用团扇的形状。
江户时代后期,日本的城市居民使用团扇扇风取凉日益见多。随着日本夏季祭祀、盂兰盆节的兴盛,团扇大为普及。日本东北三大祭祀之一“随猪祭”就是扇形灯笼。据说来自中国的三国志,扇面上绘有勇士图像。
元禄时代,团扇成了日本女子晚间乘凉时不可缺少的配带物。团扇与居民的关系愈来愈密切, 商人开始以团扇为商品在市场出售。这就更加促进了团扇的发展,相继出现了银制团扇,用丝绸制的团扇,团扇变得极为讲究。从而团扇从实用又发展到鉴赏和装饰用。团扇的种类也因此增多。如出现大型灭火团扇、涂漆防水团扇,也又送风调节火势的团扇。
和人们信仰有关的团扇也应运而生。最先在中国南部和日本冲绳,有一种蒲葵叶子做的团扇,主要供巫婆使用。还有宗教信仰用的法贵扇和天狗团扇。众所周知,“江户之华”有火灾一项,为避免火灾的发生,过去人们迷信,在门口挂起一把团扇,便可免除火灾。
如前所述,折扇系日本发明。第一把折扇是用桧树薄片缝制而成,所以称为桧扇,后来改为纸扇面。平安时代初期便有了折扇。据《西宫记》记载,平安初期,每逢夏季,宫廷贵族赐予侍臣折扇,折扇成为宫中活动时侍臣携带的物品之一。后来宫廷女子也受其影响,经常拿把折扇,作为身边的装饰品。
也就在平安时代,日本的桧扇通过贸易途径传入中国。很快就被中国人接受,开始制造折扇,并把折扇传播到欧洲。由于人们喜欢扇子,日常生活也需要它,所以促进了扇子的发展。出现了扇面上绘制图案、画有人物、书写诗赋格言等。当时一进入盛夏,扇子便成为时髦货。镰仓时代日本男子的直衣、狩猎衣的时装是以扇子为中心。宋元时代也有不少人喜欢在扇面上绘画、挥毫。
扇子还被作为舞台小道具使用。歌舞伎用扇子的张和、举动表示剧中角色的心情。如喝酒,可不用酒杯,用扇子可形象的表示饮酒、酒醉。中国的武术中也有使用扇子,称其为“少林寺扇子功”。
吉庆时,日本把折扇作为赠送礼品之一。折扇打开时向两边伸展,象征着人走的路愈来愈宽广、前途日益光明。过去还有一种习惯,公卿用白骨扇子,武士使用黑骨扇子。一看扇子便知其身份。
明治时代,日本的折扇成为畅销的贸易商品之一,出口欧洲不少国家。那时,扇子由纸面发展为绢面,很受人们欢迎。待到大正时代,扇子已成为庶民百姓的日常用品,而且在祭祀、宗教法会、名俗活动中广为使用。
随着科学的发展,团扇和折扇的实用价值将逐日减少,他们将向工艺品和装饰品发展
4 和服角隐腰带草屐和木屐
1和服
奈良时代,中国唐代的服饰传入日本,首先在贵族中流行,被称为唐风贵族服。到平安时代,对唐风贵族服加以若干改造,如袖子、胴体变长,衣服的幅度变宽。为给人以美感,穿时紧紧贴在身上,有意识的显示出人的线条美,对这种变化,日本人称其为国风化。从此这种服装便固定为日本的和服。
和服是一种复杂而深奥的服饰文化。和服种类很多,首先男女和服有很大不同。男子和服的色彩较少,腰间带子较细,不同场合穿不同的和服。如婚礼和服、成人式和服、礼服都不一样。和服是套装,有十数种附件组成,而且不同的和服,要有不同的发型,腰间带子的结法也不同,甚至要求手提包和首饰都要与和服配套成龙。因此,女子穿上和服就构成一幅美丽的图画。每一个举动都会变换出另一幅画面。据说因为穿的是和服,举措进退都有一定的规矩。如想转身则从左起动,如果前进,先抬右脚,如果后退则要先撤左脚等等,长期以来已成为日本女子穿和服时的一种礼法。
和服的衣料都是平织而成的,所以只能直线剪裁,缝制时无法考虑线条美,穿在身上才能弥补其缺陷。这点与西装不同,西装讲究剪裁中出样式,把西装缝制好,就是完成其样式。和服衣料变为成衣后,宽宽大大,不成样式,因此必须在穿着上下功夫。日本人称其为穿着文化。
和服的穿法并非千篇一律,它随着季节的变化而不同。我曾担心和服太热,不适宜夏季穿着。其实不然,穿的方法不同,可以做到使和服冬暖夏凉。和服腋下有八个通气孔,再加上袖子宽,可以通风,散发体温。日本是个美丽的岛国,拥有青山碧水,而且冬夏温差不太大,所以和服很适合日本的风土,它是合理且科学的日本民族服装。
2角隐
一般情况下,穿和服是不戴帽子的,而结婚时穿和服,则必须要戴蒙头帽。日文称其为“角隐”。意为把棱角隐藏起来,即少女时在娘家养成的任性、娇骄 二气,争强好胜、好吃、懒惰、嫉妒而无忍让等恶习统统收藏起来,克服干净,开始一个新的人生。出嫁后要上敬公婆、下睦姑嫂,夫妻恩爱,做一个贤妻良母。
角隐用生丝织成,共分内外两层,白表红里。白色代表纯洁,红色则象征吉庆。角隐的长度一般为70厘米宽,12至15厘米长,戴在高高的岛田式发髻上面,从前额顶分两边向脑后缠绕,在头顶上打结。
角隐最初并非结婚用具,在江户时代是武家和上流人物游山玩水时的防尘帽。到明治时代,婚丧嫁娶时,为模仿上流社会的作法,用于婚礼,并赋予它上述内容。
3腰带
穿和服必须系和服腰带,它是和服极为重要的部分。有了它才能完成和服的整体美,所以日本人对和服腰带的制作是相当下功夫的。
最初的和服腰带窄而细,打结在腰前。桃山时代后,日本女子不再穿裙子,腰带露在外面,看起来不顺眼,而且破坏体型美。后来受到中国文化的影响,开始系筒装腰带,并改在前方打结。这样看起来时髦、大方。后来为美上加美,腰带要缠数层。到元禄年间,日本人的生活富裕起来了,腰带加宽到五六寸,并给腰带加上了里子。由于腰带加宽加厚,打出来的结也相应大,如仍在腰前打结,不仅妨碍劳动,而且在走路时影响视线,从此富于智慧的日本人便把腰带结打在腰后,成为今天和服的样子。
日本人为把自己打扮得更加美丽、漂亮,对腰带的种类及其打结的方法,都有不断的创新,仅结法就有287种。如:文库结、大鼓结、岛原结等。
据日本朋友介绍,外国人看到日本妇女腰带束得那么紧,曾提醒日本人注意健康,担心日本妇女会患难产症和高血压。据日本医学界报道,腰间束数层宽大的腰带,不仅不影响健康,而且对健康有益,尚可防止腰痛病。日本妇女的平均寿命已居世界之首,恐怕这也是众多原因之一。
4草屐和木屐
草屐是与和服配套的一种鞋子。眼见身穿和服,足登草屐,迈着急速的里八字,方能领略出日本民族的情趣。
草屐呈椭圆足形,使用草、皮革、布制作而成的。草屐发明与古代中国,在《后汉书》中已有记载。嗣后传入日本,日文中“草屐”与中文发音极为近似。日本平安时代出版的《西宫记》中出现过草屐两个汉字。进入镰仓时代穿草屐者增多,特别是武士阶层中更加明显。待到近代,草屐成为穿和服所需的鞋子。日本女子走亲串户,出席各种隆重的仪式,穿上和服配上草屐,才能显示出婀娜多姿,越加充盈了日本色彩和气氛。
木屐也是日本独特的一种鞋子,穿浴衣时,脚着木屐,男子特别喜欢穿木屐。木屐不仅作为鞋子出现在日本人生活中,而且也是很好的馈赠品,尤其是正月和夏季的盂兰盆节时,更喜欢赠送木屐。比较讲究的日本餐馆,常常把寿司放在似木屐底样子的木板上,据说意为祝旅行者一路平安,祈愿店铺顾客盈门。
木屐是东南亚种稻文化的产物,诞生时间大约在弥生时代。最初是为了水田中作业方便,用木板或竹板为底,捆在脚上,使脚不至陷于泥中,提高劳动效率。木屐传入日本后,很快被日本人接受,因为日本潮湿,脚气病多,所以木屐在日本得到发展和改良,比东南亚用的广泛,因此,不少人误认为木屐系日本人发明的。
5 和歌
和歌这种日本诗是对汉诗而言的。日本最初的诗使用汉字写成的,有的用汉字的意,有的的用汉字的音。在此基础上产生了具有日本特点的诗。因为日本叫大和民族,加之写了诗要吟唱,所以便称其为和歌。
和歌包括长歌、短歌、片歌、连歌等。随着时间的推移,作短歌的人愈来愈多,现已占绝对多数。为此现在人们虽仍称和歌,但主要指短歌。歌人也是主要指作短歌的人。
短歌有五句三十一个音节,是一种日本传统定型诗,格式为五七五七七的排列顺序。它始于六七世纪,根据日本最早的诗集《万叶集》记载,第一首和歌作于公元757年。和歌是受中国五言绝句、七言律诗的影响,因此出现短歌五七五七七的形式,即使是长歌,最后也是以五七五七七结尾。日本除短歌外尚有更短的非句,它也是定型诗五七五的格式,只有十七个字。
除短歌、非句外,日本也有一种非定型自由体诗歌,被称为现代诗。定型诗的缺陷是不容易充分表现一个人的复杂心理。所以出现部分歌人打破定型诗而从事现代诗的创作。由于定型诗的这一缺陷,世界各国都出现定型诗趋于消亡的倾向。与世界性倾向相比,日本算是不易打破陈规旧俗的国家。如非句,现今有一千多万人从事非句创作,非句有字数少,来的快的特点,灵机一动,霎时间就能写出来。
日本人很喜欢做诗,仅和歌爱好者就有一百多万。他们中间的绝大多数是业余爱好者,除军人外,工农商学、家庭妇女等各界人士都有。专业歌人只不过二十几人。和歌是一种富贵型文化,随着人们生活水平的提高,余暇逐日增多,人们需要丰富的脑体操。估计从事和歌创作的人还会增加。
6 日本神仙
正月初,日本有祭七福神,参拜七福神的习俗。七福神一般指惠比寿神、大黑天、毗沙门天、辩财天、福禄寿神、寿老神、布袋神。也有人说福禄寿神和寿老神是同神异名,因而也有把吉祥天或猩猩加进七福神行列的。
七福神起源于佛教用语“七难即灭”“七福即生”。中国在春秋战国时代有七贤人之说,晋代也有竹林七贤等。人们都认为七是个圣数。后来画家把七贤人的形象绘成画轴悬挂。画轴流传到日本,受中国上述文化的影响,经过演变,日本室町时代首先在古城京都出现七福神,当时祭七福神风行一时,专门为其建筑神社、寺院,并把七福神的发祥地定为京都。以后日本各地绘七福神增加了地方色彩,也有所区别,日本称具有京都特点的七福神为“都七福神”。下边就介绍日本有关七福神的传说。
惠比寿神:被尊为商业之神。是日本的本地神。传说,惠比寿神教给人们用鱼和农作物进行物物交换,因而被日本人崇为买卖兴隆的守护神。也有人说它留有“旅行美须”可保护人们旅途平安、交通顺利。惠比寿神满面笑容,身着猎衣,右手持钓竿,左手抱表示吉祥的大头鱼,倍受庶民百姓欢迎。在东京都内惠比寿车站有其塑像。海女潜水、渔民撒网时,有的地方有大喊“惠比寿”的习俗。
大黑天:开运招福之神。俗称僧侣之妻,身在厨房,不入世间。传说大黑天是“慈眼视众生,福寿海无量”,可使用战术驱除厄神等五种邪气,使人平安而健壮的度日。日本民间流传它头戴黑头巾,左肩背布袋,右手持木槌,脚踩米袋,是尊日本本地神。
毗沙门天:无量智慧神。听说是弘法大师到唐朝由灵感而悟出的一个神。据传菅原道真祈求毗沙门天,从而开辟了“文章博士”之道,拥有取之不尽的聪明才智。毗沙门天系武神,身披盔甲,一手捧宝塔,一手持宝棍。也有称其为多闻天的(即四天王之一)。
辩财天:俗称福德自在神,是七福神中唯一的女神。传说她精通音乐,是善于雄辩的天女,是印度最先尊崇的女神。她身边总有琵琶。有说她拥有八臂,能运用弓、刀、斧、卷、索、箭、戟、杵、轮八种武器。
福禄寿神:是幸福、高禄、长寿三德之神。也有说是南极星的化身。是从中国传入日本之神。塔头并留有美须。手持拐杖,常与仙鹤在一起。
寿老神:不老长寿神。起源于中国道教。室町时代传入日本。日本人在希望长寿、子孙满堂、家庭福寿吉运时,崇奉寿老神。此神手持宝杖,常有鹿跟随在身。
布袋神:表示褚缘吉祥。也称弥勒菩萨。中国明末高僧隐元禅师赴日创建黄檗宗万福寺。他去各地化缘,助人为乐,并把建筑、佛像、书画、茶、菜肴带到了日本。布袋神大肚、体胖,因身旁总有布袋而得名。
七福神的出现为何多在宝船之上呢?据说因为日本是个岛国,古代与他国交往、从事贸易极为不便,所以非常重视船的作用,把与外国通商、希望生意兴隆的心愿寄托给七福神和宝船,从而七福神就和宝船联系在一起了。
七福神在日本民俗中占有一定地位,室町时代末期,有谋求新春吉利的“七福神盗贼”的风俗,在新春之际,有的贫民百姓穿上七福神的服装,悄悄溜倒他人家中,那家人会高兴的高喊“福神来了,福神来了”。并将某些财务送给装扮七福神者。散财者图吉利,得财者高兴。
7 日本庭院
纵观日本庭院,可谓小中见大,小巧玲珑。它是大自然的一个缩影。给人以充满自然主义的印象。
庭园的形象与人的自然观密不可分。日本人认为人是自然的一部分,因此尊敬自然、顺应自然、置自己于自然之中,与自然共呼吸、同生存,以求得生活的乐趣。
日本人的自然观与西方形成鲜明的对比。西方人认为自然与人类势不两立,自然是人征服的对象。
在庭园建设中很反映那个民族的自然观。日本的庭园呈现自然性,西方的庭园则是经过人的加工,明显的呈几何图案。
日本庭园的历史是相当悠久的,鉴于文字记载的日本庭园是公元620年的飞鸟时代苏我马子庭园。因为苏我最先把佛教传入日本,受中国蓬莱仙境的影响,在院子里挖地造岛,请仙人居住。它是日本由庭园发展到初期庭园的一个有代表性的例子。据说庭园样式是经朝鲜由中国传入日本的。到七世纪末,天武天皇之子草壁皇子的庭园里增加瀑布和海滨,初步形成了具有自然风味的日本庭园。
奈良时代后期,庭园池中放入水鸟,并伴以小桥,池中采用岩石,仿造海景容姿,使不易见到海的山间地带因而可以欣赏到大海风景。橘诸兄的庭园,中臣清麻吕的庭园,就是这种类型。
平安时代,日本庭园有了长足进步。因置京都为京城。京都山清水秀,自然风光如池沼、涌泉、森林尽收庭园之中,犹如一张写生画。如嵯峨院庭园就建设得美如一幅画面。
藤原时代完成了宫殿建筑,附属于这一建筑的有诞生公卿贵族的庭园。自此,庭园形成一个专门领域,拥有造园专家,从此结束了拥有庭园之人自行设计、施工的历史,为日本庭园史上留下了引人注目的不朽篇章。
经过镰仓时代到室町时代,由于禅宗文化和北宋画的影响,日本的庭园显示了高度的艺术性,给日本庭园增添了新的光辉。当时在造园材料中最受欢迎的是石头,用石技术日趋艺术和完善,使石料在日本庭园的构成和表现上起了极为重要的作用。如点缀装饰庭园的石灯龙、石塔、石制洗手钵及小路间隔石、铺路石,都为美化日本庭园作出了贡献。
后来,由于受佛教理念的影响,在庭园制作时,赋予山岳和岩石以佛姿,使庭园的构成和表现趋于抽象化。代表这种倾向和时代的就是枯山水。也可称其为假山水。
安土桃山时代在日本历史上是极为短暂的一段,各地群雄割据,战乱四起,生命危在旦夕。然而很多宏伟壮观,有特色的庭园却陆续问世。看起来似乎有些不合情理,令人不解。当时武士是日本的统治者,他们为祝贺自己武运长久,夸耀自己的权势,以今日有酒今朝醉的奢侈思想,最大限度的享乐,建造了不少大型庭园,庭园内茶庭极为典雅。永禄十二年织田信长在京都二条城建造的高级庭园就是其中一例。
进入江户初期,天下太平。当时的统治阶层是大名小名,他们遍布各地。为表示他们喜欢艺术,显示一下自己的权威势力,各个大名争相建造大型而豪华的庭园。现今仍能看到的水户偕乐园、冈山的后乐园,均是当时的产物。
到江户中末期,庭园业已定型化,但缺乏创造性。
时至现代,即明治年代到今天,日本人称这一时期建造的庭园为现代庭园。初期受江户中末期的影响,无杰作出现。从明治末期到大正年间,日清、日俄战争中,日本大发横财,建造不少规模很大的庭园,多属借景,表现了浓厚的自然主义的色彩。它具有江户初期的综合性庭园的特点,如有池、有溪流、有瀑布、有草坪、有茶室、有茶庭等。加上借景效果,看起来比实际的庭园要显得宏伟壮观。但这种庭园多是依据拥有者的要求建造,缺乏造园艺术家的气质。
大正末年,大学开设营造庭园科,出现庭园专业学校,成立了关于庭园的研究会,并陆续出版各种有关庭园的专门杂志,促进了庭园建筑艺术向纵深发展。
进入昭和年代后,日本庭园随科学技术的进步出现艺术性和实用性兼顾的新发展。
回顾日本庭园的历史,可知日本庭园具有时代特点。庭园的盛衰兴亡与当时国力和政治环境有关。
中国人去日本庭园参观时,易使人驻足的是枯山水,因为中国的庭园内很少见到,感到新鲜。不过日本最初称枯山水为唐山水。据字面解释,唐山水应指从中国传来的山水,古时不知中国是否也有过此类庭园。不过连日本人也搞不清楚,日本何时将唐山水改写成枯山水了。
所谓枯山水就是用石料表示瀑布,用白砂象征流水,即不用一草一木,用石砂示意水,以追求抽象美。枯山水庭园源于京都,保存于京都,其他城市极少。如京都大德寺大仙院,是座典型的枯山水庭园。
日本之所以保存、发展了枯山水庭园,是因为日本人生活在四周被海包围的岛屿上。大海养育着日本民族,因此人们总想与大海同呼吸、共命运,所以发明创造出寓海于石、砂,赋予无生命之物以生命,给不动之物以动之感,用以满足精神上的寄托。是很有特色的一种庭园。
中国的庭园与日本庭园有共同之处,就是保持其自然性。中国在建园过程中,注意利用自然、发展自然。即使经过人为加工的庭园,也给鉴赏者犹如自然形成的印象。你若想确认这一点,请到“中国庭园之乡”苏州一游。那里的古典私人庭园荟萃,被誉为“苏州庭园甲天下”。那里的庭园似诗如画,以有限空间创造无限空间,发挥以小见大,以少胜多的效果。有长廊、小桥、池塘、花丛、亭台等,有借景、分景、引景、对景、衬景等。特别富于对比手法,如高低、远近、曲直、分合、散聚、虚实、隐显、动静、疏密……
8 日本围棋
日本是喜欢围棋,也是围棋水平较高的国家。在围棋交往上,中日两国历史悠久。
据《俗事百工起源》介绍,围棋的黑白子象征日月,表示阴阳。棋盘四角表示地象。棋盘横竖十二条,构成三百六十个格子,表示一年的日数;棋盘横竖一尺二寸,表示一年中有十二个月。围棋起源于中国,传说夏朝末期就有了围棋。也有的说是尧帝时代产生的。在古代中国,围棋是占卜或计算的工具,在其发展过程中,才逐渐演变成游戏和智力比赛的工具。
围棋很早就传入了日本,在推古天皇以前,围棋通过三韩时代的朝鲜进入日本。日本出版的《怀风藻》是日本第一部汉诗集,公元751年成书。此诗集和《万叶集》一样,在了解古代人的精神生活上,有宝贵的参考价值。如吉备真备于灵龟二年(716)渡唐学习,天平七年(735)回国时带回围棋、尺子 、经文、日历等中国新鲜的礼品。日本人民利用自己的智慧,也促进了围棋的发展。如日本棋手称围棋为“乌鹭”,由于围棋子是黑白两色,乌鸦的羽毛是黑色的,代表黑子,鹭的羽毛是白色的,代表白子。所以不说围棋,谈到乌鹭,中日棋手都知道是指围棋。
日本进入奈良时代后,宫廷已有不少人会玩围棋。平安时代,围棋在妇女中甚为流行。镰仓时代以后,开始在武家及僧侣中流行。室町时代末期,日本的围棋水平已追上中国。进入安土桃山时代,织田信长酷爱围棋,常让围棋爱好者陪他消遣。丰臣秀吉、德川家康也学会了围棋,后来为方便玩围棋,索性给奉陪的围棋手发俸禄,养于宫中,随叫随到。
战国末期,在京都寂光寺有一僧人名叫本因坊日海,织田信长很欣赏日海的棋艺,誉他为围棋名人,赐俸禄二十石。德川家康也很喜欢日海,曾把他叫到江户,任命他为棋所,当时只有围棋名人才有资格当棋所。德川幕府实行奖励围棋技艺的政策,使围棋得到发展。日海以“堂宇本因坊”为号,名字改为算砂。日海是日本围棋界的有功之臣,日本很好的保留下本因坊的名胜古迹。当时日本围棋已有四大牌,即:本因坊、安井、井上、林。德川幕府公开承认这四家,并作后援。名家都是为了取得棋所而展开争夺战,这就又一次加快了围棋发展的步伐,日本的围棋技艺超过了中国。
1677年,本因坊四世道策被推举为名人棋所。道策的围棋造诣颇深,是公认的棋圣,所以他的就任是平稳的,谁也提不出反对意见。道策常引导棋手们不要只偏重于棋艺的比赛,要求棋手全面发展。1682年,日本人与琉球人亲云上浜比贺对局,有力的推动了日本的围棋发展。
继道策之后,井上道节四世、本因坊知道五世任过名人棋所,直至离开人世。嗣后,棋所因无名人,空缺数年。1766年,由于本因坊察元九世和井上春硕六世展开争夺战,为日本围棋带来了朝气,出现了众多围棋名人,明治文化到弘化阶段(1804-1844)为日本围棋的全盛时期。
到德川幕府末期,由于风云变幻,围棋界走向衰退,此后很长一段时间一蹶不振。到1879年村濑秀甫联络中川龟三郎,组成日本第一个围棋团体----方月社,着手围棋复兴。另一支本因坊秀和元子作了林家的养子,与方月社抗衡。对立虽非好事,但客观上促进了围棋界的繁荣。不久,继续出现了一些围棋组织,如稗圣会、中央棋院、六华会等。
1924年,大仓喜士郎男爵把各组织统一起来,创立了日本棋院。棋院诞生不久,以雁金准一为盟主的几名棋手宣布告退,结成棋正社,说服读卖新闻社与日本棋院挑战,这就是院社对抗赛。本因坊秀哉与雁金准一比赛,吸引了全国的围棋迷,结果本因坊秀哉取胜,棋正社惨败,棋院年轻棋手反倒士气大振,活跃起来。1927年,读卖新闻报率先登载了围棋界的情况,其他报刊也相继开辟围棋栏,使围棋在群众中扎下了根子,迎来了围棋的黄金时代。
标志围棋水平高低的是“段”,在江户时代就有了棋所制度,根据其实力定围棋名人、准名人、上手的地位。到本因坊道策四世时代(1645-1702)设围棋九段名人、八段准名人、七段上手、五段以上高手。日本现有专业棋手三百多人,有段业余围棋爱好者十万多人。
中日两国围棋交流历史悠久,可以追溯到七世纪遣唐僧、遣唐使时代。第二次世界大战前后,中日两国棋手也有不少交往。新中国成立后,特别是中日两国恢复邦交后,开始了真正的围棋交流。两国举办围棋赛,每年轮换在中国日本比赛。通过黑白棋子的对局,加深了两国人民的友谊,所以两国人民说:“围棋是中日两国人民友情的一枝花。”
9 日本雪节
座落于日本北方岛屿上的最大城市札幌市,每年二月初,举办一年一度为期五天的雪节。所谓雪节就是用雪堆积、雕刻成人物、动物及建筑物等各种各样的塑像,供人欣赏。虽然是雪像,却反映当时的时代气息,使生活在冰天雪地的北海道人能愉快的度过寒冷的冬天。
众所周知,北海道的人民有近半年的时间在冰雪覆盖的世界里生活。那里年降雪量为四米多,一进入漫长的冬季,人们就似昆虫入蜇一样,整日憋在房间里。人们多想到户外活动活动呀!札幌市政府理解大家的心情,设法满足人民的夙愿,改造单调的冬季生活,努力开辟北方城市的观光事业。以前在北海道就有“雪站会”(有数万人参加的骑马站,相互争夺对方的雪城)、“冰上狂欢节”和“学校雪像展”,在此基础上,决定在最冷、雪最多的二月初,由札幌市有关单位共同组成札幌雪节实行委员会,由该组织主办札幌雪节。届时号召市民、教师、学生走出房门,自己动手雕刻雪人、雪物、雪像,用自己的智慧和劳动丰富市民的生活。1950年第一届雪节一举成功,收到了意想不到好效果,博得了群众的欢迎和支持。从此,决定每年举办一次雪节。
札幌市正向国际城市发展,已同美国、西德、中国(沈阳市)的许多城市结为友好城市。为扩大札幌市在国际上的影响,1973年开始,在雪节盛会上又增加了“国际雪像比赛”的项目,设专门场地邀请外国代表队参加,请各国堆塑有本国特点的雪像,落成后参加比赛,成绩优越者可获得流动优胜旗。1985年札幌雪节时,有15个国家参加,是历届参加国家最多的一次。这一年正值沈阳市与札幌市缔结友好城市5周年,为表示祝贺,札幌市政府请当地自卫队代表塑造了沈阳市历史古迹----方城隆恩门,受到了人们的好评,中国的北方城市哈尔滨市代表队从1982年起曾几次参加过札幌雪节的“国际雪像比赛”,荣获过流动优胜旗。1985年也派了代表队,成功的塑造了“富贵有余”的雪像,得到了参加者的称赞。
“国际雪像比赛“是一次很好的国际交往,在雕塑雪像期间,各代表队用本国美味食品热情招待在冰天雪地里同甘共苦的各国代表,呈现出国际大家庭的气氛。
雪节的组织工作是相当不容易的一件事。在雪节举办前的岁尾,札幌市雪节实行委员会就要通过各种宣传报道机构,征集大雪像的主题。在一般情况下,具有一定纪念意义、市民对其内容又感到亲切的、易于被采纳作为主题。主题决定后,先着手制造模型,后转移到塑造现场,将按其实际尺寸搭架子,接着往里填雪,夯实。为使雪像坚固,不倒塌,向雪边浇水,冰雪冻在一起,不仅结实而且容易雕刻。雪节从准备到完工要花一个月左右的时间。
雕塑雪像的雪并非一般的雪,要找纯白清洁的好雪,要运大量雪到现场。以1984年为例,其年用雪量为29160立方米,载重5吨的大卡车,要运5832辆次,如将所用雪制成一米见方的雪块,接起来相当于富士山高度(3776米)的七倍多。札幌雪节一般是取近邻丘珠机场的雪,如果当年降雪少,还要到距离雪节现场三十六公里的中山岭或更远的支芴湖周围去取好雪。
欣赏那丰富多彩用雪镌刻的工艺品,的确使人心旷神怡,是一种美的享受。1985年共塑造雪像303个。然而制作雪像却是极为艰苦的劳动。听说,一些巨型而复杂的雪像,多是北海道陆上自卫队员塑造的。有时任务紧迫,需要昼夜不停的感。由于角度不同,照明不同,气候不同,塑造出来的雪像情趣也各异。
雪节是一次很好的文化展览。雪节期间开办“雪与科学”、“雪与生活”、“雪与气象”、“雪与健康”等专题图片展览,向人们介绍有关雪的知识。
雪节是一次大型文艺汇演。每逢雪节开始,日本各地享有盛名的歌手、演员、曲艺家汇聚札幌,在雪制舞台上表演,并由电视、广播向全国转播实况。真是一台别开生面的演出。
雪节又是一次游乐场。每年在真驹内广场为孩子们雕塑一个大型雪制滑梯,塑造各种各样的神话故事。另有千姿百态的人物和珍禽异兽,很多蒸汽机车和雪橇马车等。1974年大熊猫的雪雕曾是雪节的一个珍品,很受观众的欢迎。
雪节也是一个大商场,到处是临时搭起的商店。纪念品、小百货、各式小吃摆挂的琳琅满目。生意十分兴隆,据说1984年雪节的出售额达24亿多日元。
雪节还是进行宣传的好场地。如要求收复日本北方领土的人们,在雪节期间开展宣传和签名活动。每年都有七八万人签名表示支援和赞成收复北方领土。
10 日本木偶
木偶人日本人称“考凯喜”是日本传统工艺品之一。日本人很喜欢木偶人,所以经常把它作为礼品互相赠送。中国朋友也有人收到过木偶人,但有人不知其经历,不解日本朋友为何赠送一个“木头疙瘩”。
日本木偶人的发祥地于宫城县鸣子町。在鸣子町的街道两旁的很多商店里摆满了木偶人,专门出售木偶人的商店门口矗立着巨大的、有两层楼房那么高的木偶人。商店本身就是木偶人作坊,里面有工匠正在创作,所以不少商店前高挂着“请看制作木偶人的实地表演”的宣传标语。听说鸣子町有木偶人制作师傅70多人,每年能制作15000多个木偶人。在鸣子町的木偶人馆里的木偶人琳琅满目,有大有小,有粗有细,神色服饰,各不相同。共有三个展室,一个木偶人文献室。据介绍,展品多是木偶人收藏家奉献的。其中部分展品是由木偶派生来的玩具。展览室中央有几名妇女出售木偶人,购买者不少,这说明木偶人在日本是受人欢迎的工艺品之一。为进一步发展木偶人工艺,鸣子町每年9月7-8日举办“全国木偶人祭”,届时交流经验,各地木偶人师傅向展馆奉献自己的得意作品。据介绍,木偶人是用枫树、齐椁果树的木材制作的。先选好制作木偶人的材料。每年十月末把树砍倒,在山上放置月余,让水分蒸发掉,后切成180公分长的木材,嗣后运到厂房,到第二年三月,便可使用。制作木偶人时,在根据要制作的木偶人的大小,把木材锯成小段。先做圆头或圆筒,后用铇子和磨具磨光、上彩、描绘,几乎都是手工操作。制作木偶人最难的是画脸部五官,特别是木偶人的眼睛,必须一笔画出。眼睛赋予木偶人生命,也表现出师傅的个性。
木偶人为什么诞生在日本东北呢?这的确也是值得研究探讨的问题。任何事物的诞生、成长、发展,都与环境有关。木偶人的诞生地宫城县鸣子町是温泉圣地,坐落在鸣子峡的山谷中,山上树木郁郁葱葱,木材资源丰富,所以盛产木盆、木碗、木勺等木器。其技术有千年以上历史,木偶人就是在木制品基础上发展起来的。加上日本东北地方农闲时间长,有条件在家从事工艺品的生产。东北木偶人具有朴素大方、表情集中的特点。也可说很好的反映了日本东北人的个性,符合东北的自然风土。
日本木偶人分十大系统:
1 鸣子系(宫城县),特点是头可转动,而且发出啾啾的声音。
2 花卷系(岩手县),头可动,无彩色。
3 温汤系(青森县),色彩鲜艳,受东北著名祭祀“睡猪”的影响。
4 木地山系(秋田县),身体向前倾倒。
5 肘折系(山形县),头大,身大,呈黄色,好看。
6 藏王系(山形县),头大,体大,有稳重感,色彩灿烂豪华。
7 土汤系(福岛县),头小,身细,头顶画有黑蛇。
8 山形、作并系(山形),头大,体大。
9 弥治郎系(宫城县),头比身大,头顶画有两三条黑线。
10 远刈系(宫城县),头大身小。
随着日本经济的发展,木偶人艺术也有不少发展,特别第二次世界大战以后,创造出不少新花样,人们称它们为“创造木偶人”、“近代木偶人”。为区别那些新型木偶人,所以称那些老方法制造的木偶人为“传统木偶人”。当前,木偶人有六十多种。不仅东北的孩子们喜欢木偶人,其他地方的孩子们也喜欢。有的买各式各样的木偶人装饰在加重,仔细欣赏、琢磨,确实有其独到之处。有的历史剧的主题是木偶人,如“超越恩仇的木偶人----鸣子”。因为日本人喜欢木偶人,才一直兴盛不衰,成为文艺创作的主题。
11 日本君主制
一至三世纪日本首领称“王”或“君”,约到四--五世纪诸王的联合体设在大和地方,其首领改称为“大王”。大约七世纪,圣德太子时代,公布宪法十七条,当时受中国儒教的影响,把大王改为天皇。天皇的称号出自《日本书记》一书中遣隋使图书及法隆寺药师像铭文。“天皇”两字意为“帝王”。第一代天皇为神武天皇。天皇的权利超越任何豪族。大化改新后的半个世纪,日本实行中央集权,天皇的权利到达官僚制的顶点,天皇亲理朝政。特别到天武天皇时,平息了壬申之乱,威望倍增,国民崇天皇为神,迎来了古代天皇的黄金时代。但在日本历史上,天皇一般不执政,实权多在皇太子或皇亲国戚手中,天皇为太上皇。奈良时代后期至平安时代初期,曾出现皇亲之外的人掌权,外戚享有荣华富贵。
镰仓时代是天皇政权转向幕府的过渡时期,平安时代后半期,先是摄政政治,接着又迎来院政时代。在摄政政治时代,天皇是权力的源泉,然而真正的执政者是摄政或关白。这说明律令制的衰落,也可说是上代天皇不亲政传统的复活。摄政或关白是天皇的外祖父,而天皇的父亲或祖父从天皇那儿取得政权的形势是院政。镰仓幕府时代武家势力兴起,权利逐渐转向幕府。
近代前期是战国时代,日本成为分裂国家。天皇被排斥在政治之外。但战国各诸侯认为天皇是统一日本的君主的子孙,而且尊敬天皇并拥戴天皇以利自己统一天下。
江户时代,天皇与政治完全无缘,只留下授予律令性的官位(一种荣誉)和拥有制定年号的权利。制定年号也只是个形式,因为年号的性质也只不过是国家的象征。
1867年,德川第15代将军庆喜把国家政权奉还明治天皇,但实际上不是奉还,应当说是让权。明治政府最初的政者形态是太政官政治,天皇在形式上成为律令性亲政君主。
现任日本天皇的称号为“今上”,天皇的名字叫“裕仁”,1901年4月29日作为大正天皇的长子降生于世。1926年12月25日继任皇位,从“百姓昭明协和万邦”这句话中取“昭和”两字为年号,于1928年11月3日举行即位仪式,系日本第124代天皇。日本把裕仁天皇生日4月29日定为日本的建国纪念日。
天皇制和通常历史上的君主专制相比,有如下几个特点:
(1)通常的君主专制政体都是从封建制度向资本主义制度过渡时期产生的,不能自身完成国家统一和中央集权。天皇制是自身完成国家统一,并且在资本主义高度发展阶段依然存在。
(2)天皇制对资本主义表现出异常的适应性。
(3)君主制中的君主是作为一个人参与政治,天皇制中的天皇在很长一段时间内则作为神统治日本。
皇室是天皇和皇族的统称。皇族包括皇后、太皇太后、皇太后、亲王、亲王妃、内亲王、王、王妃、女王。皇室中无姓氏,天皇赐予皇室人员“宫”的称号。明治宪法时,皇室成员与一般臣民不同,不登记户口,也不受国家法律的制约,只受到皇室令的约束。二战后的新宪法规定,除继承皇位即摄政资格外,无任何政治特权。而且规定皇室成员无选举权和被选举权。
皇位由皇族血统的男子继承,如天皇长子、长孙以及长子的子孙、天皇次子及其子孙、天皇兄弟及其子孙、天皇伯父、叔父及其子孙等。天皇驾崩之时,皇嗣(应该继承皇位的第一个人)立即继位,天皇及其皇族不许收要养子。
12 日本俗语
七卿落——三条实美、三条西季知、东久世通禧、四条隆歌、壬生基修、泽宣嘉、锦小路赖穗
七福神——惠比寿神、大黑天、毗沙门天、辩财天、福禄寿神、寿老神、布袋神
七道具——甲胄、刀、太刀、弓、剪、服装、兜裆
七大寺(南部)——东大寺、兴福寺、元兴寺、大安寺、药师寺、西大寺、法隆寺
八道——东海道、东山道、北陆道、北海道、山阳道、山阴道、西海道、南海道
八难——饥、渴、寒、暑、水、火、刀、兵
八苦——生、老、病、死、爱离别、怨憎、求而不得、五阴过盛
里见八犬士——犬饲现八、犬塚信乃、犬山道节、犬田小文吾、犬江亲兵卫、犬川庄助、犬村大角、犬阪毛野
九条九代——时政、义时、秦时、时氏、经时、时赖、时宗、贞时、高时
十戒——崇拜他神、崇拜偶像、乱称神名、违背安息日、不敬父母、杀人、奸淫、偷盗、伪证、贪欲
真田十勇士——猿飞佐助、雾隐才藏、三好青海入道、三好伊三入道、穴山小介、海野六郎、笕十藏、由利镰之助、望月六郎、根津甚八
十二宫——白羊宫(御羊座)、金牛宫(御牛座)、双子宫(双胞胎座)、巨蟹宫(蟹座)、狮子宫(狮子座)、处女宫(御女座)、天瓶宫(天瓶座)、天蝎宫(蝎子座)、 人马宫(射手座)、摩羯宫(山羊座)、宝瓶宫(水缸座)、双鱼宫(双鱼座)
德川十五代——家康、秀忠、家光、家纲、纲吉、家宣、家继、吉宗、家重、家治、家齐、家庆、家定、家茂、庆喜
十八般武艺——弓、弩、枪、刀、剑、矛、盾、斧、钺、戟、鞭、简、挝、爬、头、叉、锦绳套索、白打
歌舞伎十八番--助六、矢之根、关羽、不动、象引、毛拔、外郎壳、暂、七面、解脱、蛇柳、鸣神、镰髭、景清、不破、押返、劝进帐
十八家大名——加贺(前田)、越前(松平)、萨摩(岛津)、长门(毛利)、仙台(伊达)、肥后(细川)、因幡(池田)、佐贺(锅岛)、筑前(黑田)、安艺(浅野)、备前(池田)、秋田(佐竹)、米泽(上杉)、津(藤堂)、久留米(有马)、阿波(蜂须贺)
13 日本茶道
茶道是以沏茶、品茶为手段,用以联络感情、陶冶性格且富有艺术性、礼节性的一种独特的活动。正规的茶道是在九平方公尺见方的茶室中举行,参加的人只限三、五个。但随着社会的发展,现在的茶室扩大了,人数也相应的增加了。
茶室正中置放炭炉、水坛和各种茶具,客人进茶室,跪坐和寒暄都有一定的礼节。客人寒暄完毕,由主人将水坛之水装入水釜中,用炭火煮沸,后放入已置上茶末的碗中,用精致的小竹刷搅拌,水冲到半碗左右时,茶算是做好了,由主人双手依次捧给客人饮用。客人接茶也有一定的格式,接碗后向右转两次半,嗣后两口半将茶饮完,而后欣赏茶碗、茶具。最后向主人致谢道别。因茶稍带苦味,饮前需吃一种甜点心,使人感到茶清香可口。
茶道渊源于中国。唐人陆羽著“茶经”三篇,叙述茶之原,茶之道,茶之具,甚为详备。陆羽本人被尊为茶神。茶传入日本后,被日本人民发扬光大。中国的品茶法在奈良时代就传入日本。最初是煮茶祭神,剩下的茶末才能供人饮用。日本最早记录饮茶的书叫《日本后记》,其中有这样一段:“弘仁六年(815)4月22日,赴唐僧中有一名僧都永忠,在琵琶湖畔的梵释寺向嵯峨天皇敬献了自己煮的茶。”《凌云集》中记载嵯峨天皇有关饮茶的诗:“萧然幽兴处,院里满茶烟。”、“吟诗不厌捣香茗,乘兴偏宜听雅弹。”可见茶在日本已逐渐成为欣赏的对象。
据日本史书记载,圣武天皇天平元年(729)曾有过茶仪式。延历二十四年(805)茶树移植日本。传说茶树种是当时在中国天台山学习佛教的传教大师最澄从唐朝带回日本,将其种植在比壑山下的滋贺县坂本,饮茶之风在日本风靡一时。但宽平六年(894),日本停止派遣唐使,从中国进口茶叶也因此中断,日本自己尚无种植茶树的经验。
平安时代末期到镰仓时代,日本同宋朝交往,茶的栽培法和引用法因而得到长足的发展。仁安三年(1168),容西禅师到宋朝留学,习得有关茶树、茶具、点茶方法等知识。回国后他把茶籽送给京都的明惠上人,很快种出了优质茶,并推广到日本各地。
中国宋代流行一时的“斗茶游戏”(品评茶叶质地,产地的一种游戏),在镰仓幕府末期也传入日本,至室町时代前期,“斗茶游戏”一直流行于日本朝廷和幕府等上层社会之间,后来逐步改革成日本式的茶道。到室町中期,茶道被定为上层武士阶级的一种沏茶、品茶的庄重仪式。
日本僧人村田珠光(1422-1502)幼年出家于奈良名寺,后被开除。大约二十岁时又入柴野大德寺。可他生来爱睡觉,后知饮茶有提神之小,便采坶尾之茶饮之,果见成效。珠光从而研究茶道,被日本人誉为茶道师祖。他门下聚集了很多弟子,专门从事茶道艺术的研究。珠光弟子武野昭鸥在茶道研究上颇有成就,武野弟子千利休(1521-1591)完成了茶道的改革。千利休还规定了茶道的理论、茶人的资格、茶花以及茶道用简单食品(多是素菜)、甜点心等,形成了茶道的主流。千利休还努力使茶道平民化,使茶道成为人们休息和联络感情的手段。千利休一面普及茶道,一面创立茶师制度,采取师徒秘传的办法。但这种秘传又反过来限制了茶道的传播。师徒秘传,到江户中期进一步具体化,成了今天的家元制度。
明治维新后,日本社会开始欧化,旧事物受到排斥。不言而喻,茶道的发展也受到一定影响。第二次世界大战后,日本经济有了飞速发展,也很重视文化教育,日本特有的茶道得到了长进和普及。不仅贵族小姐喜欢茶道,一般家庭妇女也设法请家庭教师或去私塾学茶道,而且大学里的家政系也开设茶道课。出嫁前的姑娘都把茶道作为必修课,为的是培养优雅、文静的举止、宽广的胸怀。
现在的茶道在国际上也有一定影响,不少欧洲国家派人到日本学习茶道。据说基督教徒作弥撒时引进了类似茶道的仪式。
茶道有各种派别,其中最大的是千利休嫡传的“三千家”。千利休故去后,本应由他的儿子少庵继承,但不久少庵隐退,而由利休的孙子千宗旦接任,并且重整了千家这一流派。
千宗旦有三子,分别继承祖业。宗左继承了宗旦的不审庵;宗室在不审庵的内侧建立了今日庵。人们依他们茶室的所在位置,把在外面的不审庵称作“表千家”,内侧的今日庵称作“里千家”。另外一子宗守一度离开茶道,但后来在武者小路建立了官休庵,又开始从事茶道,而被称为“武者小路千家”。
除了“三千家”外,茶道尚有很多流派,如“菽内派”,他是同利休同出武野绍门下,是由菽内绍智创立的。此外还有“有乐派”、“宗和派”、“三齐派”、“远州派”、“久田派”、“江户千家派”等,可谓派别众多,纵横交错。
根据日本“家元制度”,“三千家”均由长子继承父业,袭用父上姓名。次子以下都无承袭权。例如现在的“里千家”家元也叫千宗室,是第十四代。他的弟弟已改姓纳屋。为了表示与上代有所区别,采用不同的斋名,“里千家”十四代叫“淡淡斋”,十五代叫“鹏六斋”。“里千家”千宗室曾几次率茶道代表团到中国进行友好访问并在华表演茶道艺术。
14 日本纹章
纹章是个日文汉字名词,它类似中国的徽章,而又不同,比徽章用途更广。纹章是国家、城市、团体、家族、公司、学校等的标志。纹章又是艺术和美学的一部分,它不仅有鉴赏价值,而且有使用价值,难怪日本有一门纹章学。纹章是极为简单但非常明了又易于识别的几何图案。
日本的纹章是随家纹诞生、发展的。所谓家纹,是一个家族的标志。从各种资料都可看出,家纹的历史就是纹章的历史。家纹在日本始于平安时代中期,它问世的具体年代,在日本有两种说法,一说在保元、平治年间(1156-1159);一说是在源赖朝(1182-1204)初年。不论哪种说法,文章都是先在公卿贵族生活中问世。当时诗歌音乐等艺术流行,公卿贵族经常外出参加社交活动,多乘牛车前往,很多人的车又都是黑漆涂面,难于辨认彼我之辇,有人便在车的某个部位镶嵌上金丝图案,它就是家纹的起源。
随着人们生活的多样化,家纹的适用范围也越来越广。有的家族在织布时索性将家纹织于衣料上,这种家纹也称地纹。穿在身上不仅有了家族的标志,而且给服装增加美的色彩。这种做法流传至今。
家纹刚刚问世之际,图案多采用较为吉祥的植物形态,如果那种植物本身是草药,能除妖避邪,又表示家景繁荣昌盛,便是人们喜欢的家纹图案的植物。比如,天皇家族的家纹是十六瓣多重菊花。传说菊花可驱除邪恶,又庄重大方,被皇室所看中,定为家纹图案。一旦定为家纹,则世世代代沿用。
平安时代后期,日本有资格任摄政职务的五门,人称五摄家----近卫、九条、二条、一条、鹰司,他们注重门第名阀,在宫中炫耀自己的权势,选择典雅秀丽的纹章,展现在正式场合或公众面前,客观上促进了纹章这一美学的发展。
镰仓幕府成立后,政权由公卿贵族转向武士阶级。家纹是时代的产物,总是反映当时的政治。较之公卿贵族,武士的家纹欠优雅而重实用。因为内乱及战争,需要很快识别敌我,不只战旗、武器、马印、车蓬幕布有家纹,就连平日的衣服、用具上都有家纹。当时群雄割据,一军上下不熟识家纹就不能克敌制胜,由于时代的要求,初次出版发行了与家纹有关的书籍《见闻诸家纹》。
到德川家康执政时,天下太平,战争时使用的家纹变得无用武之地。后来武士定了身份等级,因而在礼仪和日常行为规范上也有不同规定,在出勤换班、登城相会时,都需要了解家纹,为此发行了载有各大名家纹的《御纹尽》一书。由于较长一段和平生活,统治者生活变得奢侈,家纹出现装饰化并多样化,如伊达纹、加贺纹、鹿子纹、比翼纹、草体纹等。由于货币的流通,商业的发展,有钱的庶民百姓也喜欢异体异样的纹章。
江户时代家纹最为盛行,就其题材而言,不仅植物,还有代表自然的日月、星辰、江海波浪、风花雪月。也有人类制造的船舶、车马辕轮、武器、弓箭。生活中的数字:一、二、三、万字、十字等也进入了纹章的题材。
日本人虽颁布过带刀禁止令,但从未公布过家纹禁止令。所以当时不仅上层人物有家纹,就是一般商人、职工、农民都有家纹。
关于家纹尚有很多美好的传说,如比翼纹,是两位恋人家纹的重叠,表示比翼双飞,祝贺永结良缘。在耐用物品上设法标上家纹成为当时的一大时髦。特别是在出嫁姑娘的嫁妆上标有家纹,如梳妆台、化妆品之类。
家纹对人的行为可起约束的作用。身穿有家纹的衣服,使用有家纹的物品,不必通报姓名,他人便知何家之人。所以家族首领队所属臣民进行教育,出门后要注意维护家族的利益。如行为不端,则败坏整个家族的名誉。
繁花似锦的家纹,给江户元禄文化增添了绚丽多姿的色彩。从而也说明元禄时代家纹盛行。
明治维新给日本带来了西方文明,从而西服代替了和服,过去家纹在服装上用得最多,由于西服代替了和服,家纹的使用率一时下降了。
近现代以来,由于资本主义经济的发展,各企业为更多推销自己的商品,让顾客认识自己的商标,家纹又开始广泛使用。当今日本所使用的纹章的数量远远超过了历史上任何时代。据日本人统计,纹章总共有12000多种。
15 荣典制度
日本有一整套的奖励制度,日文叫“荣典制度”。共有五种即位阶、勋章、褒章、从军纪章、纪念章。最享盛名的是勋章和褒章。
在日本的奖励制度中,也有受到中国的影响。位阶制就是学习唐朝。日本曾制定过日本冠位十二阶,后经过多次演变,1927年公布了位阶令。
日本是君主立宪的国家,认为君主是荣誉的源泉,所以在宪法中明文规定“天皇授予爵位(公、侯、伯、子、男五位)和勋章及其它荣誉奖。” 正因为如此,有些重要奖由天皇亲自授予并署名,或请天皇亲临授奖仪式。
勋章 勋章是日本荣誉制度中的最高奖。勋章的经历可帮助我们了解日本荣誉制度的发展过程。
勋章可追溯到罗马时代。现在的勋章是中世纪十字军时代的。当时主要是为骑士团授勋。日本学习西欧,于1867年在巴黎举办的第五次万国博览会上曾给一位法国高官赠呈一枚萨摩琉球国勋章。当时日本还没有授勋制度。
1875年,日本初次制定勋章制度,开始只设奖牌和从军牌等。那时奖牌有勋一等旭日大绶章至白色桐叶章八个等级。1876年,勋章代替奖牌,从军纪章代替从军牌,并增设了大勋位菊花章。1877年,又增设了勋位菊花大绶章。1888年决定了一种最高勋章,就是颈饰大勋位菊花大绶章。同年为妇女功劳者设宝冠章(五等,后增至八个等级),不久又为官员、军人增设了瑞宝章(八等),以后又进一步设比勋一等旭日大绶章高一级的旭日桐花大绶章。所有旭日勋章,都有日本国旗标记。
传说神武天皇东征时,一只金色的鸢落于天皇弓端之上,从而迷惑了敌人的眼睛。因为有这一段故事,于1890年为武功出类拔萃者追加金鸟勋章,设功一等至功七等,各等均有一定终身年金,1941年改为临时资金奖。到1947年废除。
1919年规定,妇女功劳者除获得宝贵章外,也有权获得瑞宝章。1937年日本制定文化勋章制度。从1964年起,日本决定每年春秋两季对立功生存者发叙勋。除文化勋章外,日本的所有勋章都和地位称号相连,即不仅有名而且有利。
褒章制度 据1881年12月制定的褒章条例,褒章奖是奖励对社会做出特殊贡献的人,如置自身安危于度外,甚至不惜献出自己生命而搭救他人者,国家授予其红绶褒章;对品德出众者,授予绿绶褒章;对为社会福利、公共事业做出杰出贡献者,授予蓝绶褒章。1918年,日本政府追加了把私有财产奉献给公共事业者,授予青绶褒章。据1955年7号政府令,对精通业务者授予黄绶褒章,对在学校、艺术领域有发明创作者授予紫绶褒章。日本褒章制度实行以来,很少发售红绶、绿绶褒章。
恩赐奖 恩赐奖是天皇绶给国民的金钱或贵重物品。第二次世界大战前和战中恩赐奖较多。战前,因为皇室拥有园林、政府、国会、都不干涉皇室经费,所以恩赐奖也发的多。恩赐奖的内容多系军刀、银制钟表、特制香烟等。也有恩赐金钱的,不过多是奖励学术、社会团体或资助蒙受自然灾害的地方。得到恩赐资金的单位,大多用于公共事业。
日本战败后,皇室财产划归国有,皇室经费纳入国家预算,要通过国会审议,因而恩赐奖也大大减少。现行的恩赐奖只有日本学士院和艺术院奖,两院均是每年一次,给优秀学者、艺术家以奖励。对其中成绩卓越者,由天皇发给恩赐奖。五六十年代都是恩赐一个钱包,从1970年起,恩赐有皇室菊花纹章的银制花瓶。对体育优胜者奖给天皇杯或皇后杯。战后改为体育优胜杯。近年来,日本的禁烟、嫌烟运动方兴未艾,天皇担心恩赐香烟会引起某些人的不快,因此废弃了恩赐皇室特制香烟的做法。
文化勋章 文化勋章主要是表彰为日本文化的提高、发展、创新而有突出功绩的人。它是依据1937年发布的文化勋章令而执行的。近年来,对科学、文艺、绘画、雕刻、建筑、音乐等领域造诣深并取得优异成绩者授予文化勋章,在每年11月3日文化节那天举行授奖仪式。文化节是为了纪念日本公布“放弃战争宣言”,意和平的理念为基础,决心把精力放在发展、提高文化事业上。
文化勋章不象上述所谈到的勋章和褒章有若干个等级。文化勋章只有一种,文化勋章的式样巧妙的使用了柑桔和月牙玉。在柑桔的五个花瓣中央,有红底构成“巴”型图案的三块月牙玉呈白色。钮则由桔叶和桔的果实组成。柑桔表示文化的永久性,月牙玉表示仁德。
文化勋章有淡紫色绶带,为获奖者佩戴在胸部。
勋章的权限、制作、披挂 发授勋章的权限在内阁,先由内阁提议,后交总理府赏勋局制定计划,由大藏省造币局制造。制造的方法多用日本传统的七宝烧工艺(类似中国的景泰蓝),为保证质量,不用机器而由手工操作。大部分勋章为银质,菊花劲饰章为金制,宝冠章则使用珍珠。制作完毕的勋章显得华丽而精美。瑞宝章、旭日章、文化勋章的背面都有“勋功旗章”四个字,以示功绩卓著。
授勋章仪式很隆重,勋一等以上由天皇署名,内阁大臣的名字签在天皇名下。天皇不署名者,则由内阁总理大臣或主管大臣署名。
关于勋章的披挂,各国大致相同。
一等勋章的大绶带披挂于肩,下边垂吊有章。如无绶带则将勋章别在胸前。
二等大型勋章别在胸前,中型勋章则别在喉下胸位。
三等勋章多为中型,别在喉下胸位。
四等以下勋章,如有小绶带则挂在左胸。
总而言之,无论勋章还是奖励,都是非常光荣的,能够获得者自然甚为高兴。
16 三种神器
日本和中国一样,也有三大件这类说法。日本古代关于三大件的由来充满诗情画意,有着不少传奇性故事。日本最初的三大件是指三种神器——八咫镜、八尺琼曲玉、草体剑。这镜、玉、剑,大约在七世纪被定位天皇的象征,从此便享有盛名。每当新天皇即位,立即接受这三件宝物,作为天皇护身之物,始终置于天皇身边。
据说天皇的这种做法,是接受了中国皇帝传国玺的影响。中国古代,玺和玉是皇帝权利的象征。日本天皇效仿中国的皇帝,视镜、剑、玉三件宝物为神圣之物,供奉于宫中,因而称其为“三种神器”,而后又赋予宗教、政治、权威的色彩。天皇死后也将三种神器作为殉葬品埋入坟墓,欲使灵魂也能国天皇生前的享乐生活。正因为有这段历史,所以后人才能在出土文物中发现它。三种神器都有不寻常的经历。
八咫镜:八咫有大或美的意思。八咫镜起源于中国的水镜,又称“鉴”。就是在一个金属盆中放上水,用以照面。后来逐渐发展成铜镜,背面绘刻有松竹梅、龟鹤等吉祥图案。在弥生时代,镜子从中国传入日本。当时日本人视镜子为神圣物品,挂于胸前作为避邪用具。之后镜子种类增多,其中的八咫镜作为天照大神的御灵,祭在日本神社之祖伊势神宫内。镜子在日本民俗中占有相当的地位。日本人认为镜子照物照人本身就说明它具有神秘性和魔力,所以有关镜子的信仰和传说很多。说它可引来吉祥,映照出人心,可暴露恶魔的本质,预见生死吉凶。由此,日本至今有人认为镜子被破碎是不祥之兆,不能跨越镜子,非吉庆场合要把镜子遮盖起来等等。
八尺琼曲玉:也写作“八坂琼勾玉”。八尺有两种解释,一是“大”的意思,二是指串起曲玉的绳较长。八尺琼曲玉是日本独创的祭器和装饰品,形如英文字母C,上方挖一小洞,便于用绳子串起来。八尺琼曲玉在绳文、弥生时代出现,古坟时代最为盛行。最初并非玉石做成,当时以动物、野猪的牙齿作材料,后来使用金、石、玉,其中硬质玉如玛瑙、水晶最为理想。可将一两个名贵材料制作的曲玉为主体,配以圆形、管状曲玉串接起来,可作项链或服装、衣领等的装饰品。在日文中“玉”与灵魂的“灵”发音一样,因此视八尺琼曲玉为珍贵物品,并列入三种神器之一。
草体剑:素戋鸣尊。须佐之男命治服了八岐大蛇,并从大蛇尾巴上获得的宝剑。传说只要有八岐大蛇,其上空必有云彩飘浮,因此最初称宝剑为“天丛云剑”。据《日本书记》记载,素戋鸣尊.须佐之男命将剑奉献天神,天孙降临之际传给天皇。以后,崇神天皇制作了仿造品,将真品与八咫镜一起转移至笠缝邑。垂仁天皇又移至伊势神宫。景行天皇时代,日本武尊.倭建命东征时,路过伊势,倭姬命将天丛云剑授予他。在骏河遇贼徒火攻。日本武尊.倭建命使用此剑斩断草体而解围,从此又称该剑为草体剑。归途中,日本武尊.倭建命在尾张把剑寄放在宫箦媛后,与世长辞。后人将剑祭在名古屋市热田神宫。剑为日本刀的一种,由于日本刀的特殊冶炼、制造工艺,使其具有锋利、不折、不弯等特点,从而闻名遐迩,被称为宝刀。草体剑因为那段传奇式的经历而被列入三种神器之一。
17 和式住宅
日本民族喜欢木构住宅,因为它适合日本的风土。但在现代化住宅建设中,木构住宅越来越少。日本住宅房间较小。住宅大小用蹋蹋米的叠数来表示,一叠约两平方米,日本的住宅有的一间只有四个半蹋蹋米,即八平米左右。在欧洲,如果没有十五六平方米,就不算一间房子。日本每人平均住宅面积也比较少,据1980年的调查,每人仅有17平方米左右,因而欧洲人常说:“日本人是住在兔子窝里拼命的劳动。”
古代,日本人利用自然洞穴作为住宅。到石器时代,开始居住自己动手挖制的竖穴,深度为三十公分到一米左右的竖穴,在四个角上竖起柱子,用树枝、野草搭起顶棚,这就是日本人建的最初的住宅。当人们迎来农耕后,生活产生贫富之差,有钱人不再住竖穴而是在地面上立起柱子,盖上屋顶,在屋子里铺上略高一点的地板,当时称它为高床住宅。这种建筑物的优点是防湿、防暑,便于储藏谷物成为日本后来住宅的基础。
到奈良时代,与大陆各国交往日渐频繁。在交往过程中佛教从中国传入日本。日本人开始兴建寺院,为此请来了木匠和烧瓦工人。他们的到来促进了日本住宅的发展。在高床住宅的基础上,贵族开始建造举办佛教法令的大型场所,平时用屏风等物隔开,可做各种用场。
平安时代,贵族对住宅的要求更高了,着手建造宫殿式住宅。即以宫殿为中心,在东、西、北三个方向建造对称的房屋,分给家属们居住,同时也为侍从和雇佣人员建造住处。那时日本的住宅有了等级,贵族住宅的屋顶,铺名贵荟树皮,一般老百姓铺木板,贫贱者铺草。
进入镰仓时代后,武士兴起。他们为防御外来侵略者,筑高墙,挖壕沟,出现武士风度的宅院。有钱有势的武士,就在宅院内建造谷物仓库、武器仓库、加工作坊等。宅院内设施增加了,需要更多的管家、侍从,所以在宅院中也建造了下人的住宅。这一时期,采光技术有了提高,出现拉窗和木板遮雨窗。
室町时代,设幕府于京都,随着生活和文化水准的提高,对住宅也提出了新的要求,在武士住宅的基础上,主人的居室和客厅内开始铺放蹋蹋米,住宅内设书院、置板栅。这种建筑被称为书院建筑。现存有京都二条城的丸殿社、西本愿寺的飞云阁等。上层阶级的住宅有很大改进,然而一般庶民百姓的住宅却没见多大改观。
待到江户时代,由于商业的发达,一般市民的经济状况有了好转,表现在住宅上是吸收书院式和茶室式住宅的优点,创造出典雅的住宅,博得武士、豪商阶层的欢心。如京都的桂离宫、修学院离宫等,都是这一时期的产物。就是这一时期,出现了二层楼建筑。一楼作店铺,二楼当住宅。
到明治时期,由于加强了与西方国家的交流,日本开始出现石造西洋住宅。室内装饰品也逐渐增加了西洋成分。居室和客厅分开,就在这一时期。
大正时代,住宅内扩大,而且在大门旁单劈客厅并另设茶室、浴室、厨房、厕所。住宅发展为人们提供了方便的生活环境。
和式住宅的特点:进屋拖鞋。不论洋式还是和式住宅都是拖鞋子进入室内,进屋前换拖鞋或赤脚;不可少的“床之间”。这里的“床之间”并非放床的房间,而是地板铺的高的一个房间。最初称书院,目的是帮助人开阔视野。在那里悬挂描绘好的神佛姿容的书画由装饰用的书画、雕刻等工艺品替代。尽管内容发生了变化,但它毕竟是祭祀用的圣地,人是不可随意登踏的。
和式住宅的顶梁柱极为重要,它支撑着整个建筑物,日文叫“大黑柱”。因为那根柱子在厨房边上,而厨房之神叫“大黑天”,所以那根柱子便叫“大黑柱”。
从古代,日本人就把顶梁柱看成住宅的象征,甚至崇敬为神。日本神社之祖是伊势神宫,在那里有一根有名的柱子为“心之御柱”,放置在神宫本殿地板下,被尊为天照大神灵魂的象征。
18 歌舞伎
日本的歌舞伎和中国的京剧一样,都是举世无双的古装戏剧。
奇胲的问世 有关歌舞伎的最早记录见于江户时代初期的1603年。当时的演员为出云大社巫女、阿国女艺人以及茶室、澡堂的沦落女子,他们先是演出小型讽刺意味的歌舞,女扮男装,卖弄风情,容色卑微,颇受以商人为多数的庶民百姓的支持和称赞,并波及全日本。他们在祭祀场合出现,表演男女缠绵的私情,此举被认为预示人丁兴旺,百业繁盛。因此,当时称歌舞伎为歌舞妓。歌舞妓取音于日文“倾”的汉字发音,意味使人喜欢到为之倾倒的程度。
幕府认为有伤风化,并且与当时盛行的佛教教义相抵触,1629年下令禁止女子演出歌舞伎,内容奇特,且带调情性,幕府又认为举止过分,担心这批人伤风败俗,于1651-52年禁止演出。
然而由于群众喜欢,要求恢复的呼声强烈。在1653年允许男扮女装的歌舞伎重新登台演出。但颁布了很多清规戒律,如演员必须地剃头前发,不以歌舞为主而演史实、传说等等。不言而喻,是为防止弊端的出现。
顺利成长 经过几次禁令,促使歌舞伎向真正戏剧的方向发展。歌舞伎以台词和动作为主,有了充实的内容,休整出剧场,挂上拉幕,完善、密切演员与观众关系的“花道”,经过一个世纪,迎来了歌舞伎飞跃发展的时期。当时正值元禄时代,所以又称“元禄歌舞伎”的黄金时代。
这一时期出现了戏曲专家富永平兵卫、近松门左卫门,确立了德川时代独特的“义理人情的悲剧”。演员的角色有了进一步分工,剧情变的曲折、风趣。出现了著名演员坂田藤十郎、市川团十郎、中村七三郎等,可谓人才辈出。在表演武打、叙事、旦角艺术上都有了新的建树,歌舞伎完善了其基本演技,形成了一个完整的艺术。
起伏中发展 元禄歌舞伎的兴旺阶段过后,歌舞伎在四五十年内一蹶不振,与此同时,另一个群众性戏剧----人形净琉璃,迅速发展起来,引走了歌舞伎的观众。使歌舞伎处于极为被动的局面,歌舞伎只得步着人形净琉璃的后尘,借用其优秀剧目演出,一时歌舞伎面临名存实亡的惨状。不过人形净琉璃热了一阵,于1750年前后急剧衰败。歌舞伎又一次崛起,并带来三味线音乐的繁荣,从而迎来歌舞伎的第二个集火成阶段。
后来,日本在很长一段时间内,实施锁国政策,使日本政治腐败,经济日渐衰微,人心惶恐不安。在此情况下,一般性戏剧不受欢迎,观众希望刺激性强、变化大的剧目。如残杀、色情、恶棍、强盗等,一时占领了歌舞伎的舞台。
明治维新开始后,日本接受了不少西方文化,歌舞伎也不例外,出现了用歌舞伎形式反映新时代的戏剧。不管形式和内容发生什么变化,日本人认为歌舞伎是日本难得的古典戏剧之一,因此,希望保存、继承、发展下去。
19 神社
神社是日本特有的宗教建筑和宗教组织的所在地。若想了解神社中的奇风异俗,有必要先知道一下什么是神社,因为神社本身也有其奇特之处。
神社与日本人的生活息息相关,历史悠久,由农村部落的集体祭祀发展而来。凡有人居住的地方,肯定有神社。神社附近的居民都是神的子孙,日文叫“氏子”。神的子孙有义务保护神社,参加神社主办的祭祀活动。
日本的固有总教是神道,他们信奉的神就祭在神社本殿之中。神社的最大特点是有“鸟居”的形状代表神社。顾名思义,“鸟居”就是鸟栖息的地方。这里的鸟指长鸣鸟,也就是鸡。
传说神道的始祖是天照大神,它从天之岩户出来时,高天原仍被夜幕所笼罩。待到太阳再次出现时,高天原中的鸡齐鸣。由此鸡被工人是报告黎明之鸟。鸡鸣会唤醒沉睡的人们,宣告黑夜即将过去,为神起先导的作用,为此将“鸟居”设在神社的入口处。
现在,日本约有神社八万个,其中所供之神多种多样,一般与当地的神话、传说、历史有关,大致分三类:(1)生长发展的源泉,如高皇产灵神。(2)山川、湖海、岩石、树木等自然物质,如火雷神。(3)祖先和功臣,如北野神社所祭智慧之神藤原道真。就神社的名字而言,数量最多的是:伊势、熊野、稻荷等。
时至如今,把神社作为文物古迹供人参观游览当然不足为奇,然而,科学、教育相当发达的日本,仍视神社为信仰之地,甚至有时允许在神社举办奇特的祭祀,不能不使人费解。日本人也可能习以为常,在外人看来则属奇风异俗。
香烟疗法 走进神社,随时可见香火不断,香烟缭绕。在香炉旁,总是有不少人用手捕捉香烟捂向自己身体的某个部位。若问为什么,回答是:“香烟疗法,烟到之处,可以驱除病患。”
拍手参拜 参拜神社的日本人,在走向祭神的殿堂前,先去洗手、漱口、以洁净之身躯去参拜崇敬之神。多是两拜两拍又一拜之礼,既鞠两次躬,拍两次手,在鞠一次躬,之后祈祷或表示感谢,最后奉献香典钱。
参拜时拍手的动作在中国少见,据说,拍手出自日本古代的一种生活习惯。《三国志》中记载有日本人见到伟人拍手跪拜的习俗。类似现代人相会时握手。参拜时拍手起“振魂”的作用。用拍手声音把神招来,再次拍手一起振动神和人之魂,以表示祝福,此俗一直沿袭至今。
不同神社,不同的祭祀,拍手的次数也不仅相同。譬如,出云大社是四次拍手,祝贺孩子七、五、三岁时,两拜两拍祈祷,或两拍一拜结束。
抽签算命 在神社内一般都设有算命箱,投进一定数量的硬币,便会出来一枚折叠非常整齐的纸条。将其打开,上面先是关于抽签人的总命运----大吉、中吉、小吉、大凶、凶等,接下去便是用简洁文字概述命运如何。紧接着是分项说明能否升官发财,身体状况,要否请医生,今后言行注意些什么等。
买木牌祈望如愿以偿 神社内出售一种长方五角木版供相信者购买,背面书写要求祈望的内容,挂在神社辟出的一角,既奉献给神。日本人称那枚木牌为“绘马”。
“绘马”如文字所示,就是绘画之马。关于“绘马”的来历,说来话长,远在平安时代就有。那时日本曾用汉文撰写过一本文集《本朝文粹》,书中写有大江匡房向北野天神奉献“斗方绘马三尺”。
古代,日本有向崇拜之神献活马的习惯,其马被称为神马。后来逐渐演变为木马。又从木马变为“绘马”。之后又依要祈望如愿以偿的内容出现各种动物和风景的木牌。
奉献“绘马”,本来应由奉献者亲自绘制,书写祈望的事由。现在,神社为方便游客、顾主,根据干支准备好反映当年特点的“小绘马”,祈求人在其背面只写事由本人名字即可。
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